むぎょうの受験体験記

むぎょうの受験体験記

浪人生活を記録していくブログです。東大理一志望。

【雑談】如何に物を眺めていないか

先日、勉強に疲れて靖国神社まで行ってきました。

 

散歩するコースを決めるために地図を見てまず衝撃を受けたのは、今まで愛媛県にあると思っていた靖国神社が東京にあることです。

 

受験で政治を勉強した人にとって懐かしいことでしょうが、政教分離の原則で「愛媛玉ぐし料訴訟」というのを習います。

愛媛県が、靖国神社護国神社に自県戦没者の霊を祀ってもらい、公費で玉ぐし料を払っていた事件。最高裁は、「目的・効果基準」により、宗教的効果があるとして違憲判決を下した。

 

「お前はどんだけ学がないんだ!勉強しろ!」と思う人もいるでしょうが、僕はその時

 

あの靖国神社に行ける!!

 

という興奮を味わっていたので、そういう反省はブログを書きながらしています。

そういえば予備校のすぐ側に靖国通りがあったじゃないか…

 

 

f:id:ARBmugyou:20190710005650j:plain

神池庭園

とにかく着いた頃には歩き疲れていたので、休憩がてら非常に綺麗な池の前のベンチで休憩を取りました。

 

f:id:ARBmugyou:20190710010210j:plain

行雲亭

池の隣には立派な茶室が。

 

帰る途中の梅林も、2月は綺麗なんだろうなぁと、しみじみと感じました。

今日は美しい光景を見れて良かったと。

 

しかし電車で帰る途中、読んでいる本にハッとさせられることが書いてありました。

 

言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫(すみれ)の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。何年も何年も同じ花を見て描いているのです。そうして出来上がった花の絵は、やはり画家が花を見たような見方で見なければ何にもならない。絵は、画家が、黙って見た美しい花の感じを表現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。何か妙なものは、何だろうと思って、諸君は、注意して見ます。その妙なものの名前が知りたくて見るのです。何んだ、菫の花だったのかとわかれば、もう見ません。これは好奇心であって、画家が見るという見る事ではありません。画家が花を見るのは好奇心からではない。花への愛情です。愛情ですから平凡な菫の花だと解りきっている花を見て、見厭きないのです。好奇心から、ピカソの展覧会なぞへ出かけて行っても何んにもなりません。

 

飛びますが、もう少し続きます。

 

今日の様に、知識や学問が普及し、尊重される様になると、人々は、物を感ずる能力の方を、知らず識らずのうちに、疎かにするようになるのです。物の性質を知ろうとする様になるのです。物の性質を知ろうとする知識や学問の道は、物の姿を壊す行き方をするからです。例えば、ある花の性質を知るとは、どんな形の花弁が何枚あるか、雄蕊、雌蕊はどんな構造をしているか、色素は何々か、という様に、物を部分に分け、要素に分けて行くやり方ですが、花の姿の美しさを感ずる時には、私達は何時も花全体を一と目で感ずるのです。だから感ずる事など易しい事だと思い込んで了うのです。

 

まあこれ全部小林秀雄さんの文章なので、鵜呑みにするべきではありません。

しかし確かに言葉で対象の美しさを片付けてしまうことは身に覚えがあるなぁと、彼の鋭い切り口に感心しました。

 

その日の靖国神社でさえ、僕は眼の前の美しい自然や光景をジッと眺めることはせず、立て看板を見てやれ庭園だ茶室だ梅だとか。

梅だと分かると、眼の前の梅ではなく記憶に焼き付いた故郷の梅林を思い出す。

それをもって眼の前の梅林を見た気でいるのがいけない。

 

僕の見るという行為が如何に不完全であったかを自覚させられました。

 

昔は違ったのかもしれない。

ありふれた一本の木でさえ、飽きずに見ていたあの頃。

木の幹の模様をジッと見つめて、或いは触ってその木に出会う。

木の名前はどうでもいい。ただその木を知りたいという一種の愛があったのかもしれない。

 

画家はよく子供の心を持っていると言われていますが、なるほどそうでなくては立派な絵など描けませんね。

 

今からでも一本の木の前で立ち止まることができるか。

タスクが頭をよぎって、眼の前の対象に集中できないかもしれない。

仮にこれを読んでいる読者が、近くのなんでもない物をジッと見つめれるでしょうか?

 

言葉ですぐに片付けてはいけません。

あの部分が出っ張っているとか、ここがこうなってあれがこうして……

その時点で、対象を切り刻みすぎでしょう。

一体判断というのは理性上の問題で、感じるのは理性によるものではないはずです。

美しさを感じるというのが、如何に難しいかが分かると思います。

 

次の場合に当てはまる人も、美しさを感じる力が衰弱しているかもしれません。

美術館に行って、一枚の絵を見てすぐに題名を見たがる人。或いは題名を見て初めて合点のいく人。

……まあ僕なんですけど笑

 

その絵を見てなんとも言えない感じになることこそ、画家が伝えたかった想いかもしれません。

立派な芸術を見て、豊かに感じることを教えてもらう。

まずそこから始めようと、まだ遅くないと反省した次第です。